しかし、である。ネリカ米だけでは足りない。人は米のみにて生きるにあらず。
──
人はパンのみにて生きるにあらず。同様に、人は米のみにて生きるにあらず。おかずや調味料も必要だ。
( ※ 原義をはずれたダジャレで済みません。 (^^); )
で、何が言いたいかというと、次のことだ。
「アフリカの開発援助をしようとして、関係者はネリカ米を推奨した。その特徴は、高収量かつ病気に強い、ということだ。しかし、それは男の発想である。女の発想が欠けている。つまり、どういう料理をするか、ということだ」
──
ちなみに、関係者の発想がどうであるかは、本家本元のサイトからわかる。次のページ。
→ ホームページ ( http://www.warda.org/ )
→ 英文資料 (PDFファイル 2.35MB)
これをざっと眺めるとわかるが、次のようになっている。
・ いかに高収量で、病気・乾燥に強いか。
( 詳しくは → Wikipedia )
・ 料理の方法は少しだけ。欧米風の料理。クッキーなど。
このページを見ると、次のことがわかる。
「ネリカ米を作ることばかり考えていて、それを食べることをろくに考えていない」
クッキーなんてものは大量のバターを必要とする。そんなものの調理法を示しても意味がない。もっと大切なものを示す必要がある。
──
では、どうすればいいか? 私は、次のことを提案する。
「ショーユと豆腐を普及させる」
米だけあっても、食えたものじゃない。特に、ショーユ(醤油)は絶対に必要だ。ショーユなしで米だけの食生活なんて、とても考えられない。とすれば、アフリカでは、ショーユを普及させることも絶対に必要だ。
といっても、いきなりショーユを作れと言っても無理だろうから、現地に工場を造ればいい。キッコーマンなどの出番だろう。
また、豆腐も同様だ。豆腐なら、(職人が)個人単位で作ることができるから、大規模な工場を必要としない。アフリカ各地で豆腐を作れば、大豆タンパクをとることもできて、栄養状態が非常に改善されるだろう。
また、おからなどは、家畜の餌にすることもできる。家畜の糞は、土壌の肥料にすることができる。そこからガスを取って、調理用の燃料にすることもできそうだ。
──
以上の点については、次の発想が大事だ。
「緑の革命の失敗に学ぶ」
( ※ ネットで「緑の革命」を調べるといい。)
いわゆる「緑の革命」は、功罪なかばするが、基本的には「失敗」と見なした方がいいかもしれない。たしかに「金」は手に入るのだが、その代わりに「自然」を破壊してしまうからだ。(ま、同様のことは、先進国すべてがやっているから、人のことを言えた義理じゃないが。……)
「緑の革命」は、「多収量」をもたらすのだが、そのために、「大量の水と大量の化学肥料」を必要とする。とはいえ、「大量の水と大量の化学肥料」が簡単に見つかるわけじゃない。
その結果、土地にある水と滋養を過剰に吸収して、そのあとの土地を破壊してしまう傾向がある。短期的には収量増が見込めるが、あとに残るのは砂漠ふうの荒れ地だけ、というふうになりがちだ。
ここには(土地への)「収奪型農業」がある。それよりは、「安定した循環型農業」の方が好ましい。
そして、それには、「大量の水と大量の化学肥料」を用いる「緑の革命」の方針を捨てて、「大豆や家畜との循環型農業」という方針を取った方がいい。
つまり、「ネリカ米だけあればいい」ということは、ないのだ。
( ※ ネリカ米は、緑の革命のときの米とは違って、大量の水や化学肥料を必要とすることはない。その点では、緑の革命の教訓は生かされている。が、そうだとしても、それだけでは十分ではない。別の点で、考慮すべきことがある。……それが本項の趣旨。簡単に言えば、一点豪華主義では駄目だ、ということ。それを比喩的に言うと、「人は米のみにて生きるにあらず」となる。)
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まとめ。
「米だけあればいい、というのは、食料学者の発想だ。そこには生物学的・食料的な視点はあるが、人間的な視点が欠けている。だから、彼らは理解するべきだ。『人は米のみにて生きるにあらず。おかずや調味料も必要だ』と。」
むさくるしい男の発想だけじゃ、駄目なんですね。
( ※ 料理をする優しい女の発想も必要だし、環境保護を図る生態学者の発想も必要だ。)
[ 付記 ]
だいたいね。思うに、上記の WARDA(アフリカ・ライス・センター)の研究者たちは、何を食べているんだ? 自分たちでネリカ米を食べているんだろうか? 私は、とても、そうは思えないんですけどね。
ま、もしかしたら、食べているのかもしれないが、自分で調理しているとは、とても思えない。自分は肉とパンを食べながら、ネリカ米の普及のことばかり考えているのだろう。
「おのれの欲せざるところを人に施すなかれ」
と言いたいですね。(……ちょっと意味が違うって。 (^^); )
【 補足 】
「米だけでなくショーユを」と述べたが、これについて補足しておこう。
ショーユというものは、日本だけで用いられているのではなく、アジア各国で用いられている。特に日本的というわけではない。また、その味も、各国でかなり異なる。中国のショーユと日本のショーユとは、たがいに交換可能なものではない。別の味がすると思った方がいい。
→ Wikipedia 「Soy sauce」
実際、米国のショッピング・サイトを見ると、タイ製のショーユなどが見られる。(ただし、日本のキッコーマンなどがポピュラーであるようだ。)
→ ショッピング・サイト
以上のことから、次のように結論できるだろう。
「アフリカでショーユを普及させるのであれば、日本のショーユを押しつけるべきではない。料理は、各国の風土に合わせて、各国の人々の好みがある。その好みに応じるべきだ。ショーユもまた、その料理に合わせて、独自の味付けをするべきだ。……具体的には、どれがいいかわからないから、さまざまなバリエーションを提供して、そのなかで好まれるものを大量に生産すればいい」
ここでは「日本料理には日本のショーユ」というような発想を捨てる必要がある。「郷に入らば郷に従え」という発想が大切だ。
[ 余談 ]
以下は、経済学的な話。特に読まなくてもよい。
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【 関連項目 】
→ アフリカの未来
→ 食糧危機とイモ